服の上から胸のあたりをぎゅっと掴む。 優子さんのお店に逃げるように駆け込んで、ようやく今落ち着いてきたところだ。優子さんは息のあがっている私を心配してくれたが、「急に走りたくなってしまった」とごまかして店番に戻った。我ながら下手な嘘だとは思うが、優子さんがそれ以上追求してくることはなかった。 よく考えたら、あそこで逃げる必要はなかったのかもしれない。青年に名前を呟かれたからと言っても、堂々としていれば何てことなかっただろう。普通に考えて漫画やアニメの世界からキャラクターが飛び出してくるということはありえないのだから。 では何故逃げ出してしまったのか。それは条件反射だ、としか言い様がない。なんというか、一気に体が熱くなって気がついたら公園を走り出していたのだ。あの青年が何かしてきた訳でもないというのに。 ・・それにしても。 本当に私が『』であることを信じる人がいるというのは、やっぱり少し変な感覚だ。普通2次元の世界の人物そっくりの人が目の前に立っていたとは言え、それが本当にその当人であると信じる人がいるとは。いや、現に忍足さんも信じた人間の1人であるけれど。 「(やっぱ逃げなきゃ良かった・・)」 何度も言うが、あそこで逃げないで堂々としていれば何の問題も起きなかっただろう。 ああ、もし今度あの青年に会ってしまったらどうしたら良いんだ。ぞうさん公園に居たということは、その近場に住んでいるイコールまた会う確立が高い。また再開してしまった時、私はどういう態度を取ったら良いんだろうか。 ・・ええい!ぐだぐだ考えていてもしょうがない! これからは帽子と眼鏡を必ず着用する様にしよう!うん。 * * * 「それじゃあ、お疲れ様でした」 「お疲れちゃん。また明日もよろしくね」 「はい!失礼します」 今日は日曜日なのでいつもよりも早めにバイトは終わりだ。さあ家に帰って晩ご飯の準備をしよう。 そういえば、冷蔵庫の中には何があったかなあ。結構材料が少なくなっていた気がする。うーん、まずは買い物だな。一応1回家に戻ってから買い物に出かけよう。今日は珍しく忍足さんが家に居るのだ。 日曜日といえども、忍足さんは夕方まで家に居ないことが多い。何をしているのかと言えば、部活の練習だと言う。 日曜日まで部活なの!?と最初は驚いたが、忍足さん曰くこれは中学生の頃から同じみたいで、当の本人は馴れっこみたいだ。・・恐ろしい。休日に遊びに行くことも、ゆっくり休むことも出来ないなんて。 まあそんなこんなで忍足さんは日曜日でも家を空けることが多いのだが、今日はその部活がないらしく珍しくお休み。日頃の疲れをとるため忍足さんは家で休養中である。 今日の献立何にしようかな、なんて考えながらしばらく歩いていると、ようやく家が見えてきた。鞄の中から鍵を取り出し鍵穴へと差し込む。がちゃり、と小気味のいい音が聞こえて、ゆっくりと扉が開いた。 「ただいま」 「んー。おかえりー」 リビングのドアを開けると、ソファーに座った忍足さんがにこっと笑って私を出迎えてくれた。 「あ、そうだ。忍足さん、今日何が食べたいですか?」 「あー・・なんでもええよ。強いて言うならカルボナーラ」 「カルボナーラですね。了解です」 「ん?どっか行くん?」 「買い物行ってきます。冷蔵庫空っぽなんで」 冷蔵庫を確認しながら忍足さんに言葉を投げ返す。実際そんな空っぽ、という程ではなかったが、この残り物で作れるメニューが思い浮かばないのだ。 「あ、俺も行くわ」 ソファーから立ち上がり、くああとあくびをする忍足さん。 休んでても平気ですよと声をかけても、忍足さんは笑顔で「もう十分休んだで」と答える。ううん、なら一緒に買い物に行こうじゃないか。あ、忍足さんと買い物だなんて実は初めてかもしれない。 ・・ちょっと楽しくなってきた。 * * * カルボナーラは以前優子さんに教わったことがある。もちろんソースから作る方法である!ちょっと難しそうに見えるが、分量を間違えなければ意外と簡単なのだ。 ちなみに余談だが、忍足さんはフェットチーネという麺の種類が好きらしい。あれだ、ちょっと平ったくて幅が広い麺。私も一度お店で食べたことがあるが、もちもちした感触のとても美味しいパスタだ。 「この時間帯、やっぱり親子しか居ないですね」 「夕方やしなあ。そろそろご飯時や」 近くのスーパーに到着し、視界に入ってくるのは小さい子供を引き連れた親子ばかり。その中に学生2人組ってちょっと浮いている気がするがスルーの方向で行こう。 私がカートを押し、忍足さんがその隣を歩く。時折立ち止まりながら食品をカゴの中へ入れ、ゆっくりと進んで行く。 「いらっしゃいませー。あ、そこの若奥様!」 「えっ、私ですか!?」 「そうですよ!あら、かっこいい旦那様ですね。羨ましいわ〜」 試食コーナーに立っていたおばさんに声をかけられ、思わず忍足さんと顔を合わせる。忍足さんは「あはは」と笑って試食の食品をひょい、と口に運んだ。 「ん。うまい。も食べてみい」 忍足さんが爪楊枝の先についた果物を私の顔の前へ持ってきた。 ・・悪気はなかったのだ。本当に。 ただカートを押していて、両手が塞がっていたノリで。こう、ぱくっと。 忍足さんの差し出した果物を、私は所謂「はいアナタ、あ〜ん」という感じで食べてしまったのだ。 「〜っ!?」 「まあ、お暑いですね!」 「わわ、ごめんなさい!!」 何やってんの私! 慌てて忍足さんに謝るが、忍足さんもびっくりした顔をしている。しかもその頬は少し朱に染まっていた。 うぐ、私だって恥ずかしい!!本当にごめんなさい忍足さん!恥をかかせてごめんなさい! 「え、ええよ!全然!平気!!」 「すみません!嫌でしたよね!」 「!!んな訳ないやろ!!むしろ大歓――」 「・・え?」 「(っぶな!!!)・・何でもあらへん」 「やっぱりお若いと違いますねえ!」なんてちょっとはしゃぎ気味のおばさんの元を後にし、忍足さんとちょっと気まずい距離を保ちつつ歩く。 すると忍足さんが、静かに言葉を紡いだ。 「・・やっぱ俺達って、夫婦とかに見えるんかな」 心なしか声が沈んでいるぞ、忍足さん。私の気のせいか? 「見える、みたいですね」 私なんかでごめんなさい。そう心の中で忍足さんに謝る。 ・・しかし、忍足さんから返事が聞こえない。やっぱり嫌だったのか!慌てて「やっぱ見えないですよ!」と言おうと思ったが、それは忍足さんの言葉によって遮られた。 「ちょっと、嬉しいかも」 びっくりして隣の忍足さんを見やる。忍足さんは口に手をあて、ぼんやりと床の辺りを眺めていた。そして私の視線に気づくと、慌てて野菜の乗っている棚の方を向いてしまった。 ・・もしかして、フォローしてくれたんだろうか。 本当は夫婦に見られるの嫌だけど、まあここは嬉しいフリしてやるよ的な。 「・・玉ねぎ」 「あ、ありがとうございます。」 そっぽを向いた忍足さんの赤い耳に、私は気付くことがなかった。 BACK ↑ NEXT |